「人はそれほど他人の容姿を気にしていない」は嘘だと思う。
容姿コンプレックスについて今回は愚痴ります。私はかなりの醜形恐怖症です。美容整形も行いましたが、顔のパーツがそれぞれ絶妙に崩れているため今ひとつ残念な顔です。見た目を気にしすぎて一時期は病気なのでは⁉︎(や、病的なんですが)と悩み、ブスなのは思いこみかな…と自己啓発の本などを読み漁ったりしたものです。色々な自己啓発系の本には
〜ポジティブな思想が自分を変える〜ひきよせうんちゃらかんちゃら
などと書かれていますが、ブスは治りません。もう一度言います、
ブスは自己啓発本を読んでも治りません。
「人はそれほど他人の容姿を気にしていない」なんて誰が言ったんでしょう?それは他人に興味がない人、または目が見えない人くらいでは?(偏見)
そもそも人間という生物は集団生活を基本としています。人間社会は“集団”をつくり、そのため“他者と関わって”生きていかなければならない。その他者との接触の際に“何も感じない”なんてことは、ほぼ不可能である気がします。他者と関わる際は、容姿、口調、声色、表情、臭い、動作、五感にバシバシ働きかけてきます。今回は“容姿”のみに限定していますが、五感に働きかけてくる情報に対して気にしないなんてことできるのでしょうか?
見ず知らずの男性が目の前を歩いていたとします。その方の服は薄汚れていて所々千切れており、匂います。私は失礼ながらも「あぁ…ホームレスかなぁ」なんて思いを抱きます。そしてその後「ホームレスにはなりたくないなぁ」や「お風呂入ってないんだろーなー」などの自分勝手な空想につながります。
見ず知らずの人に対してこうまで思うのです。ホームレスを例えにしましたが、それ以外だとパッと見ヤクザの様な外見(Vシネに出てくるような柄シャツを着た目つきの悪い〜そんな感じです)の方を見ると「絡まれたくないなぁ」「怖いな」など感じると思うでしょう。また、日本の公衆浴場や海水浴場は「刺青・タトゥー禁止」などの看板が目につきます。
あれ?他人の容姿を気にしてないんじゃなかったんですか?って。
お見合いは“お見合い写真”が使われてましたね。容姿を気にしないのなら写真など必要ありませんよね。
もうわかりますよね。人は思った以上に他人の容姿を気にしているんです。
私も結婚式に出るたびに不細工な新郎だと「うわぁ」と若干笑顔がひきつりますし、心の中は「なんであんな不細工なのと…」と思っています。男の友人の中には「結婚式で新婦がブスだと周りの友人もブスが多いためテンションが上がらない…」なんてのたまう輩もいます。
見てますよあなたの容姿。みんな見てるんです。
日本人は特に外見を意識しやすい民族である…と、ある記事で読みました。島国の中で長く続いた封建制度と、農耕民族という集団生活に重きを置いてなりたってきた文化から、異質な物を警戒、排除しようとする傾向にあるそうです。このため第一印象で得られる“見た目”から徹底的に情報を得ようとする、のだそうです。
loveworklife.hatenablog.com
このブログの記事の中では
「海外に行けば容姿コンプレックスは克服できる」と書いてあります。うん…「海外行けば」ね。価値観の違いがあることなんて知ってますよ。
でもここは日本よ。日本なんですよ。“価値観の違いを認めない国=同調圧力のとても強い国=日本”なのですよ。
そしてなぜか男性に面と向かって「ハゲ」と言う人は少ないのに、女性に向かって「デブ」だの「ブス」だの言うクソッタレな社会です。
このような現実を生きていながら「人はそれほど他人の容姿を気にしていない」なんて言う人は現実逃避もいいところだと思います。
ここは日本です。皆さん今日も自分の見た目を気にしながら生きていきましょう。疲れたら海外に住むのも悪くありませんが…日本がいい!と思う方は、せめて少しでも相手を不快にさせず清潔に見えるよう心がけていく努力が必要だと思われます。
また心無い「ブス」「デブ」など罵ってくる方には呪いの人形に釘を打ちつけて憂さを晴らしましょう。写真をとって顔に虫ピンを刺していくのもなかなか狂気じみてて良いと思われます。
中学生時代の夏休みの思い出がない。
自分のプライベートな話を書くと身バレが怖く、なかなか書けないでいましたが…
こちらのブログを拝見して少しだけ書いてみようかと思いました。
題名の通り私は中学生時代の夏休みの思い出がありません。「思い出がない」というのは適当ではないかもしれません。正確に言うと「友達と遊んだ思い出がない」です。
中学1年生の頃はバドミントン部に入っていたため、夏休みは部活に行くという日課があり外出していたのですが、そのバドミントン部がまた厄介。ペアを組んで練習をしなくてはいけないという決まりが。するとペアを組んでいた相手が部活に来なくなり…また中学2年生になった頃から私は同学年の女子全員から無視されていたため、部活にいってもそんな私とペアを組んでくれる友人がいるわけもなく…。そして私はバドミントン部を辞めました。
小学生の夏休みは嫌でも毎日あったラジオ体操すら中学生は行く必要がありません。私は毎日何をして過ごしていたのでしょう。何となく記憶にあるのは
起きる→朝ごはんを作る&食べる→ニュースを見る→洗濯物を干す→お昼ご飯を作る&食べる→昼ドラを見る→昼寝するor読書→洗濯物をたたむ→夕飯の用意をする
ん?主婦ですかね?
毎日同じことの繰り返しで全く面白くもクソもない夏休みでしたが、それよりも私は夏休み明けの友達のいない学校生活がまた始まる日が来ることにビクついていたような気がします。
なぜ友達がいなかったかは、まあ自分のせいでもあり、そんな自分を作った毒親な両親の存在がありました。私の親は子供に関しては「成績が良ければそれでよく、遊びや友達は必要ない」そのような偏った考えの方たちでした。中学生の女子というものはただでさえ面倒臭いものであり、その対応に悩んでいた当時の私に対して
「友達なんてものはいらない。何にも利益にならない。なぜ友達なんか欲しがるのか?」
と言い放たれた記憶があります。(父に友人はいません。お葬式呼ぶ人いないや。あはは)自分のせいであると言ったのは、キチガイ発言を繰り返す親に反抗できなかったという点ですね。養育されているうちは反抗できないな…と子供ながら理不尽さを感じていました。
我が子に友達が一人もおらず夏休みにどこも行かないという状況が変だとは私の親は考えなかったのか?(もともと社交的でなく本ばかり読んで引きこもっていた幼少期でしたが)なんて愚問ですよね。はい、考えてなかったと思います。“問題を起こさないいい子”であったことでしょう。そのようにして2年生の夏休みは過ぎていき、3年生の夏休みはというと…ゴロゴロしていて暇な夏休みを過ごすくらいなら、と塾に通うことになりました。というわけで継続して友達のいなかった私は、毎日塾に通うという予定ができたことに喜びを感じていました。その塾も自分と同じ学校の子が通わないような遠い場所を選び、安心感もあり、塾に行くということがとても楽しかったのを覚えています。
私の両親は世間でいう毒親でしたが、私が大人になると無毒化しました。というより「養ってやってるんだから言うことを聞け」のセリフが言えなくなったこと、子供ながら親のために自分を犠牲にするのは当たり前だと思っていた私の優しさに甘えまくっていた両親に対して、厳しく接するようになったことが大きかったと思います。
というわけで世間は「夏休み=楽しい」といったイメージでしょうが、私の夏休みの思い出にはダークなものが含まれているのです。まだまだ夏休みは始まったばかりですが、こどもたちが楽しい夏休みを過ごせますように…。
精神的成長は必要か?という件について
まず何よりも相手に気持ちや意見を聞くことができる。つまり、相手の「時間」を作ってあげることができる。そういう対応ができることが「人として成熟している」と言えます。』
他には
『一つの例を出すと、グレーゾーンの容認という部分もあります。精神疾患者の多くや、幼稚な人は、判断基準が良いか悪いかの二択しか存在しないケースが多いです。成熟するにつれ、グレーなー部分が増えてきます。』
『人は、心で思っているままの人間になる』 (ジェームズ・アレン)
『人は、心で思っているままの人間になる』